低医療費政策で人手不足 忍び寄る崩壊の足音/8止(大阪)
記事:毎日新聞社
提供:毎日新聞社
【2007年2月3日】
医療クライシス:忍び寄る崩壊の足音/8止 低医療費政策で人手不足
◇書類の山「溺死寸前」
生活保護申請の意見書に、病状報告書、さらには精神保健福祉手帳用の診断書……。精神科医の机の上はいま、さまざまな書類であふれかえっている。精神科医で近畿福祉大(兵庫県福崎町)の勝田吉彰教授は、精神医療現場を「溺(でき)死寸前」と表現する。診察時でも、患者と目を合わせる余裕がないほど書類作成に追われる状態だからだ。
精神病院は、国が定めた「精神科特例」によって、医師数が一般病院の3分の1しかおらず、1人で約80-40人の患者を診る。しかも時間をかけて患者と向き合う必要があり、そのうえ法律改正で書類が増えた。勝田教授は「精神保健福祉士に書類作成を任せることができれば」と訴える。
精神保健福祉士は、専門知識を持ち、患者の相談や世話などが主な業務。だが保険支払いの対象業務は限られ、病院での雇用は進まない。勝田教授は「書類作成を精神保健福祉士の独占業務にすべきだ」と提案する。
人手不足の影響で必要な処置ができないケースは精神科に限らない。済生会栗橋病院(埼玉県栗橋町)は、手術前夜、眠れない患者に睡眠薬を出す「麻酔前投薬」を02年5月以降やめた。60代の女性患者に手術前夜、睡眠薬を出した時の出来事がきっかけだった。
女性は未明にトイレに起きた際、慣れない睡眠薬でふらつき、転倒して右腕を骨折、手術を1週間延期せざるを得なくなった。病院は「今の看護師の数では、すべての患者さんの転倒を防ぐことはできない」として、睡眠薬投与をやめた。
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日本と同水準の低医療費政策を続けた英国で起こったことは、日本の将来を暗示する。英国では医療が崩壊したといわれる。最近までロンドンに留学していた近畿地方の総合病院医師(40)はこんな経験を語る。
生後10カ月の長男が夜中に腹痛を訴えた。便に血が混じり、腸ねん転を疑った。朝9時に病院の救急に行ったが、看護師は「あと10分」と言うばかりで、診察の気配はない。長男が回復したためキャンセルして、高額なプライベートドクターに診てもらったが、既に午後4時になっていた。この医師は言う。「英国では、医療費が原則無料のNHS(国民保健サービス)の医師になることを敬遠し、高収入を得られるプライベートドクターか、米国を目指すと聞いた。NHSの医師は疲弊し、労働意欲をなくしている」
英国の医療に詳しい近藤克則・日本福祉大教授によると、入院待ちの患者はピークの98年度に130万人に達した。がん患者が手術を4回も延期され、結局、死亡する事態まで起きた。
ブレア政権は00年、医療費を5年間で1・5倍に増額する計画を発表。医学部の定員を3972人から6326人へ増やすなど、医師、看護師の大幅増員も進めた。また、医療費を増やすだけでなく、国立最適医療研究所を創設し、治療法の費用対効果を評価。全国の病院の待機期間やコスト、主な病気の死亡率などを公表する仕組みも導入し、医療費が無駄にならないようにした。
近藤教授は指摘する。
「日本も医療費だけでなく、治療効果や医療従事者の労働時間、患者の受診抑制が起きていないかをチェックするシステムを作り、医療費を増やすべきだ。低医療費政策を転換しないと、日本の医療は崩壊する。かつての英国の後を追ってはならない」=おわり
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この連載は、鯨岡秀紀、玉木達也、五味香織、苅田伸宏、田村彰子(東京社会部)、砂間裕之、今西拓人、根本毅、河内敏康(大阪科学環境部)が担当しました。
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